Air Language NewsBullet n°082
2024/09/29 (Sun) 19:05
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海辺の墓地──3b
断続連載小説「初代門司駅遺構」
平出隆
photo : unknown
一九四〇年に対馬中学を卒業した父は、九州鉄道門司通信区に就職した。翌年春、それまで配置されていた行橋から門司へと転じた職場で、臨時雇用員として入ってきた十六の少女と出会ったらしい。その翌年の一九四二年五月、教育召集により西部四十六部隊に入隊、引続き臨時召集を受けて、長崎県の大村陸軍病院に転属した。
一九四四年六月十八日、森一八七一六部隊の一兵卒として、ビルマへ派遣された。出征に際してのものか、親許や勤務先及び寄留先の書き付けられた切れ端が残されている。実家は長崎県下県郡厳原町中村、勤務先は門司鉄道局施設部門司第二電気派出所、寄留先は婚約者一家の住む門司市大里御所町二丁目、連絡先は施設部総務課(山本和子)と記されていた。
施設部総務課に正規に勤めはじめた母と職場を共にしたのは、一九四二年五月までの一年ということになる。おそらく一九四四年の出征時に婚約したのだろう。門司港の波止場で見送るに際して、婚約者の父親、あの燐寸箱ラベルのコレクターだった人は、まだ娘婿となるかどうか分らぬ南方へ赴く兵士に、波止場の雑沓の中で一本の御神酒を手渡した。それから、母は船の上に父の姿を見失った。
「船を追いかけても、見えないの。向うからは見えているのにね。」
私の手許に、父より先に復員した戦友の日録が、一日分だけ複写されて手許にある。
「16/VII 火 晴 昼前、門病を訪問す。吉村、壇上、守、伊藤先生等と話す。帰途施設部に山本和子さんを訪問し、平出軍曹の無事なるを知らす。そして元気をつけてやった。」
一九四六年七月十六日、母は二十一歳だった。一九四五年八月、二十三歳の父はビルマ南部のタトンのゴム林で終戦を迎えた。翌年四月、戦災復旧使役としてマンダレーへ移された数個部隊は、連合軍から支給されたJWP(Japanese War Prisoner)の背文字の入った服を着せられ、マンダレーヒルの麓に野営した。。二年後の一九四七年夏、輸送船はいったん関門海峡を過ぎて広島の呉港に入った。父はそこから列車で西へ折り返して関門鉄道トンネルを潜り、八月二十二日、婚約者一家の出迎える門司駅頭に着いた。痩せこけた身体を押し潰す、大きな背嚢を負っていた。
一九四二年七月、関門鉄道トンネルは下り線のみ開通した。これにより、「門司駅」は「門司港(もじこう)駅」の名に、貨物駅の「門司港(もじみなと)駅」(1933-)は「門司埠頭駅」(-1982)の名に、「大里駅」(1891-)は「門司駅」の名に連動して変わった。トンネルの向うが「下関駅」なら、こちらは「門司駅」でなければ「関門トンネル」とはならないからだった。海港と一体的に建設されたあの駅が、名称においても「港」と合体したのはこのような経緯である。
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